どうも、突然ですが皆さんは幸せですか?
私は、幸せです。
実際、真の意味での幸せの意味なんて分かりませんし、もし仮に幸せじゃないとしても、私は幸せである、と、言い続けるでしょう。
まぁ、よく分からない禅問答は置いといて、そこそこ若い体と感性という土台の上に、有る程度のお金と時間が有って、周りの人間環境にも恵まれてる訳ですから、客観的に見ても、健康、富、愛と言った観点から、幸福の基準は満たしてるかとは思います。
しかし、この幸せと言うもの、一体何故必要なのでしょうか。
我々生物と言うものは、例外なく重力という抵抗する事の出来ない力により経年劣化していき、いずれこの身朽ち果てるのですから、極論、生とは死に辿り着くまでの寄り道なのかもしれません。
にも関わらず、何故、我々は幸せを求めてしまうのか。
いや、更に言うと、何故、より幸せになる事を生きる目的とする事が、1900年以降における宗教と哲学の終焉の際の、凡そ世間一般的な定理となってしまったのか。
有る学者は言いました。
生物とは遺伝子の乗り物に過ぎない、と
食欲、睡眠欲、性欲。
これら3大欲求は殆どの方がお持ちかと思います。
それら3大欲求の内、食欲と睡眠欲に関しては生きる事に対して生物学的に必要なのは理解出来るかと思います。
しかし、この中に何故性欲が含まれるのか。
それは、我々が死ぬ為に他なりません。
遺伝子とは、常に繁殖力の高い個体を宿主にしようとする性質が御座いますので、経年劣化する我々生物というのは、遺伝子にとってみれば捨て駒みたいな物です。
なので彼等遺伝子は、その経年劣化していく捨て駒を次から次へ乗り捨て、次世代にその種を広めようとする訳ですが、これを我々人間の視点に置き換えますと、繁殖が完了しその次世代の育成が完了した場合、それ以降というのは生きる意味を失い死を選ぶ事が合理的な選択になってしまいます。
しかし、不思議な事に、我々人間は幾ら次世代を生み出し、その次世代の育成が完了した所で、殆どの場合決して死にたいなどとは思いません。
ここが面白い所で、これによりマゾヒスト等の性の二律背反が存在してしまうと同時に、生と死への衝動という本来1つの個の中には共存し得ない物の混在により、感情や時間感覚への認識という一種のバグが引き起こされてるのかな、と、個人的に思っております。
極論、生きたい(継続したい)という体側の要望と、死にたい(変更したい)という遺伝子側の要望、これが1つの個に同時に宿るという矛盾が、本来一瞬で産み出されては消え去るはずの宇宙空間の歪みを捻じ曲げ、時間に対する認識とそこに付随する感情を持って、我々人間は生きてしまってる、こう捉える事も出来る訳です。
では、人生、ひいては感情や意思なんて物は一種のバグで有り、我々人間が生まれてから死ぬまでには凡そ必要の無い物で有るにも関わらず、何故、そんな物を感じる必要が有るのでしょうか。
要約すると、魔宮がツラいです。
終わります。